「不食」とは山田鷹夫さんが「断食」と区別するために造ったことばで、「人間は食べなくても生きられる」という前提のもと「食べても食べなくてもいい」という意味で使われています。人は基本的に食物からエネルギーを摂取する必要はない(むしろそれが当たり前だ)けれど、趣味・嗜好としてたまに少量食べるのもOKという考え方です。
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わたしはこれまで食べるということ、食欲にさんざん振り回されてきましたし、いろいろ思い悩んできました。
そして、食べること、食欲から解放されるならどんなにいいだろう、食べないだけで病気も治って人間の秘めた力が発揮されるようになったらどんなにいいだろうと、「不食的ファスティング」と名付けた断食(ファスティング)を何度か行ってきました。
仕事が忙しくてちょっと中断した時期もありましたが、また不食を開始しようと準備を進めていた矢先、「本当に不食になる覚悟があるのか?」と内なる自分から問われ、うすうす感じていたけど直視できなかった心配事に真剣に向き合う事態になりましたので、今日はそれについて記事にしようと思います。
不食になるメリット6つ
「不食」の提唱者である山田鷹夫さんは、ご著書『人は食べなくても生きられる』の中で「不食からのプレゼント」として以下の6つを挙げています。
- 病気・不調の完全解消
- 全く疲れない体
- 眠くならない、寝なくてOK
- 「もう働かない」宣言が可能
- 大災害時にあなたを救う呪文
- 超人間能力の獲得
どれをとってもすごいですね。私が一日一食や断食を始めたのも1の理由が大きかったです。子宮筋腫はまだありますが、30年以上患っていた花粉症は治りました!4と5も、いざというときでも何にも依存しなくても生きていけるという自信につながります。疲れないから眠くもならないし、病気にもならないなんて鉄人です。しかもそれだけではなく超人間能力=ふつうはOFFになっているDNAのスイッチがONになって発動するとのこと。断食するとオートファジーのスイッチがONになるというのと同じですね。人によっては超能力が開花するとも言いますから、もはや普通の人間の域を超えます。
時間とエネルギーが浮く
私が実際にあまり食べなくなって実際に感じたメリットとしては、やはり食にかかわるほとんどの時間とエネルギーが浮くことでしょう。例えば、食べるのに必要な時間と言えば、買い物、調理、食事、食器洗い、食器の片付け、メニューを考える時間などがぱっと浮かびますが、さらに大きな視点で見れば栽培、飼育、運搬、加工(発酵熟成含む)、保存・収納、農地開拓、ゴミ処理、そして見落としがちですが、何といっても体が消化吸収に使う時間とエネルギーも浮きます。もっといえば、上記4にもあるとおり、食べ物を調達するための資金を稼ぐ時間、つまり仕事まで今までのように長時間(我慢して、ストレスためてまで)働く必要はないということになります。
関連記事→ファスティングは「食べない瞑想」。「食べること」に費やすエネルギーや時間について考えた
不食になるデメリット=時間がありすぎる
こうしてメリットを挙げると一見いいこと尽くしにしか見えない不食ですが、一般ピーポーの私から見て、一見よさそうに見えて「ん?」とひっかかるポイントがあったので、あえてデメリットとして考えてみたいと思います。それは一言で言えば「有り余った時間とエネルギーをどう使うか」ということになります。
時間がありすぎる
まず浮いた時間を何に使うかという問題。先述した通り、食事に関するあれやこれやの時間だけでなく、労働時間も必要なくなるのです。
さらに山田さんは『断眠』というご著書も出版されていて、それによると「架眠」という夢でも起きているのでもない睡眠をちょこちょこ取れば、主睡眠時間はそれほど必要はないとのこと。例えば2,3時間の睡眠時間で十分と仮定して、一日21,22時間は使えるようになるのです。他の人が寝ている間も自分は起きて活動できるのです。
食事、仕事、睡眠時間が必要なくなるということは、一日、一週間、一か月で考えると結構な活動時間が確保できます。そうやって浮いてできた貴重な時間を有効活用できるような「やりたいこと」が果たしてあるか?という。普段から「一日24時間じゃ足りない!」と思っている方は不食になるといいかもしれませんね。
食べること・寝ることに変わる幸せとは?
一日一食(微食)になってからも、食べることはやはり楽しみで幸せな行為でした。旅行に行けばその土地ならではのお料理やお酒を味わうのが楽しみですし、家族や友人が集まって同じものを食べて「おいしいね!」と言い合うのも幸せです。ぶっちゃけ、栄養価があまりなくて添加物だらけのものでもお腹が膨らめば幸せでしたし、何か「噛んでいる」だけでも幸せを感じられるかもしれません。わたしにとって、食事は栄養補給のためというより味を楽しむため、食欲を満たすため、人と交流するための娯楽的な意味合いが強いと思います。その娯楽、幸せを本当に手放せるのか?私には自信がありません。
そして先述した通り、不食になると睡眠すらそれほど必要ないという。わたしは寝ることが好きです。寝ている時間が幸せだと感じています。しかし不食になるとそれさえもいらなくなるということで、さて、食べること、寝ること以外に幸せがあるのか?という問題が浮上してきます。「寝食忘れて何かに打ち込む」という表現がありますが、それほどエネルギーを注ぎたいもの、夢中になれるもの、集中してやりたいこと、幸せを感じられるものがあるか?と言われると、残念ながら私にはないのです。食べることと寝ること以上に幸せを感じられるものって、なんでしょう。
周囲と合わなくなる
周りが寝ているときに寝ない、周りが食べているときに食べないとなると、食事会や旅行などほかの人と長時間行動を共にするときに支障が出てくる可能性があります。そんな人は空気読めない人だし、変人扱いされることでしょう。かといっていちいち説明してもわかってもらえないだろうし。それをくぐりぬける、あるいは気にしない信念と強さがあるか?と言われると、それも怪しいです。
不食になる覚悟はあるか?
有り余る時間をどうするか、有り余るエネルギーを何に使うか、おつきあいはどうする?という問いが、ずっと頭の中を駆け巡っていました。前出の山田さんも、やはり空いた時間にすることがないと悩んでいたようでした。
すると突然蓮の花が頭に浮かんで、どうしても見たくなったので電車に乗って見に行きました。もう時期は終わっていたのですが、それでも探せば2,3個の花を見つけることができました。その花をしばしボーっと眺め、頭に浮かんだことをノートに書きとめてはまたぼーっと眺め・・・をくり返していると、心にかかっていた霧が晴れたように、もうすでにそこにあったであろう答えが浮かんできました。
結論から言うと、「それでも不食への道を進む」ということに変わりはありません。今まで当たり前と思っていた「食べること」「寝ること」が、実は要らないものだった、という、生きるための最低条件、本能を覆すような思い込みから解放されたならば、人間の可能性は一体どこまで広がるのでしょう。不食の先輩方はみなさん「食べないことが快感だ」と言っていて、それは「食べることが前提の人間には到底わからない気持ちよさだ」と言っています。私はそれをこの体で体験してみたいのです。その実現が今の生きる目標になっているかもしれません。それに不食は「食べてはいけない」とは言っていません。食べたかったら食べてもいいのだから、そこは真面目になりすぎずに臨機応変に、人間社会で生きていくのに支障がない程度に食べるのもありです。そしていつか、食べることも、寝ることも、その両方から得られる幸せも手放せるほどの、さらなる喜びや快感を味わえる日が来るかもしれません。
最後に
そうはいっても、まだまだ食欲、睡眠欲は旺盛で、すぐにどうこうできるとは思っていません。不食的ファスティングを45日やったかと思えば、あっという間に食欲に負けて食べまくるという、3歩進んで2歩下がるカメさんの歩み。それでも、不食の先輩たちも、「焦らずゆっくり10年ぐらいかけるつもりで」と言ってくださっていますし、その紆余曲折の経験こそがまさに私だけの歩み、経験、人生でもあるので、それもマルっと楽しんでいこうと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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