【人間関係・心】欲しがってた承認はすでにここにあった

考え方

新年に降ってきた、今年のキーワードは「人」という記事を書きました。

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早速2月に人間関係に動きがありました。

ずっと疎遠になっていたけど、この先の人生一緒にいてほしいと思った旧友に会いました。

普段は連絡とらないけど、会いたくなった時にふらっと連絡してふらっと会う友人に会いました。

定期的に連絡を取り、刺激しあい、応援し合うことのできる友人に会いました。

実家に帰省して、両親や兄弟家族に会いました。

 

友人、家族、周りにいてくれる人を改めて見まわしたときに、気づいたんです。「ああ、欲しがってたものはもうとっくにここにあったのに、気づいていなかったのはわたしだった」って。

一番の渇望感「承認欲求」

わたしが自覚している一番渇望感を感じるのは承認欲求です。

ずっと「自分は嫌われている」と思っていました。私を好きで必要としてくれている人はいない、みんなに好かれるような人にならなきゃダメだ、友達が少ない自分はみんなに否定されている、あの人みたいに優しくできない自分は性格悪いやつ、自信がないから隠れていたい・・・などと無意識に思っていましたね。だから

「もっと私を見て」

「もっと私を愛して」

「もっと私を必要として」

「もっと私を認めて」

「もっと私を大切にして」

もっと、もっと、もっと・・・!私、私、私・・・!

そう、まるで小さい子供のように、母親のような無限の関心と愛情を欲しがっていました。満たされるのは一瞬だけで、すぐまた絶望的に寂しくなっていました。

すでにここにあった

2月に自分が会いたいと思った人、会いたいと言ってくれる人に会った時に、自分に向けられていた好意、承認に気づきました。

それはもう子どものころからずっと、

離れていてもずっと、

どれだけ生活や環境が変わろうともずっと、

どんなサイテーな自分を見せようとも変わらずにずっと、

ここにあったのに、わたしが気が付かなかっただけでした。

そして、一番身近にいる夫も「そのままでいい。いてくれるだけでいい」といつも言ってくれていたのに。

わたし自身が自分を嫌って否定していたから、すでにあるものを見ようとしていなかった、受け取ろうとしていなかっただけでした。

光が当たって消えた渇望感

嫌っていたのは「みんな」じゃなくてわたし、原因は「わたし」じゃなくて「わたしの心」だった!

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どんなサイテーな姿を見せようと、

ちゃんと見ていてくれている人がいる

ちゃんと愛してくれている人がいる

ちゃんと認めてくれる人がいる

私の知らないいいところを知ってる人がいる

たくさんじゃなくていい、ほんの数人でもそういう人がいるってわかったとたん、私の中にあったドロドロして巨大な叫び声を上げる承認欲求が小さくなり、かわりにホワーンと、あたたかくて、優しい何かに包まれました。そして一度日が当たったそれは、もう消えることなく心にあって、いつでもジワーンと感じることができます。

これさえあれば、たとえ誰かに嫌われようと大丈夫、完璧じゃない自分でも大丈夫、と、思えます。私もまあまあ悪くない(といってくれる人がいる)から大丈夫、と思えます。

私だけじゃない。きっと、みんな、おんなじ。

最後に

私の場合、毎年2月と3月に無性に心の大掃除というか、浄化が活発になるようです。それは春の芽吹きと共に溜め込んできた要らないものを一気に出したくなるというか。1年前は大掃除をしました。

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今年は大掃除というより「気づき」「開眼」に近いことがたくさん起きています。そしてそのたびに、生きるのがとてもラクになっています。

本当に、何もわかっていなかった、何も見えていなかったと思う今日この頃。

「幸せになりたい」と人はよく言いますが、もうすでに幸せの中にいるから、気づかないだけなのかもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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