腐ったナスが教えてくれたこと

考え方

小林正観さんが「ありがとう」を念仏のように唱えることと、五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を言わないといいことがあるというのを証明すべく生活実験していますが、実践しようとするとなかなか思うようにはいきません。特に五戒の方。長年の思考グセなのでしょうね、なにか自分に都合の悪いことが起こると無意識で五戒の方の考え方をしてしまっている自分がいます。

今日は私の幸運体質になる生活実験の紆余曲折の一例をご紹介したいと思います。

買ってきたナスが腐っていた

先日もこんなことがありました。

夫が買い物に行き、八百屋でナスが5本入っている袋を買ってきました。そうしたら、そのうちの1本が腐っているのに気が付きました。夫は買う際によく見ないでかごに入れ、そのまま気が付かなかったようでした。

腐ったナスを見た私の言動

私がその腐ったナスに気が付いたときに思ったことは「またよく見ないで買ってきた。夫はいつもチェックしないでテキトーに選び、傷んだモノを買ってしまうことがあるから、今後こういうことがないように言わないと。」でした。そして夫にその腐ったナスが入った未開封の袋を渡して「これ、ちゃんと見なかったでしょう?」と言いました。

腐ったナスを見た夫の言動

夫はその腐ったナスに初めて気が付いたようでした。そして「こんな見えないように内側になっていたら気が付かない。いつも俺が買いに行くと変なのに当たって文句を言われる」と言って、そのナスの袋をテーブルに投げたのです。

夫の言動を見た私の言動

夫のその行為は私の怒りの琴線に触れました。頭の中でプチンと音がしました。そして「食べ物を投げるとは何事だ。罰が当たる。それにそのナスを選んだのはあなたでしょう。自分のせいなのに他のモノのせいにするのはよくない。そんなに言うならもう買い物にいかなくていい」でした。そして口には出しませんでしたが「食べ物への感謝が足りない!ナスに謝れ!私のように「ありがとう」を唱えないとナスの栄養が下がる!」とも思っていました。そしてそう言ったあと、思ったあとに、ハッと気が付いたのです。

夫に対する自分の言動についての考察

私は夫に五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を浴びせていました。「腐ったナスを買ってきたあなたが悪い」と、責めていたのです。しかもこういうことがあるたびにそうしていたんだと思います。だから夫が「いつも文句を言われる」と言っていたことにこの時初めて気が付きました。そして、「チェックが甘い&自分じゃなくてヨソのもののせいにするというのはよくないことだし、食べ物を粗末に扱うのもよくないことだから、「正しいこと、感謝」を私が教えてあげなくちゃ」と、「私が正しくて夫が間違っている」から「夫を変えよう」としていたことにも気が付きました。

ナスに対する自分の考え方についての考察

腐ったナスを見た瞬間思ったのは「なんでお金を出して腐ったものを買ってくるの?お金がもったいない」でした。つまり、腐ったナスを悪者として見ていました。

しかし、冷静になって「ありがとう」の心でよく考えると、腐ったナスがうちに来たことはむしろ良かったんじゃないかと思えるようになりました。我が家は食べ物を粗末にしないので、ちょっと腐っているところがあるからといって全部捨てたりしません。確かに腐っているナスが1本入っていましたが、丸ごと腐っているわけではないので傷んでいるところだけ除けば残りは食べられます。ほかのナスにも影響は出ていないのでこちらも食べられます。それに「腐る」ということ自体、無農薬で安全であるという証拠であるようにも感じられました。どうなんでしょう、ご家庭にもよると思うのですが、もしこの腐ったナスが行った先のご家庭が、潔癖で、野菜に傷も曲がりも虫食いも汚れも許さないようなところだったら、確実に袋ごと全部捨てられていたでしょう。そう考えると、ナスはわざと我が家に来たようにも思えてきました。

腐ったナス事件が教えてくれたこと

今回のことで、たくさんの気づきと学びがありました。

・「食べ物を粗末に扱うのはよくないこと」というポイントは逆鱗に触れるほどの強固な価値観として私の中に存在していること

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・それは私の個人的な価値観としてあってもいいが、他人に強要すべきではないこと。

・もし食べ物を粗末に扱っている人(今回は夫)を見たら、「自分が正しい、相手は間違っている」と「人を変えよう」とするのではなく「私はそうしない」と自分の内で決意を固めればいいということ

・傷んだ食べ物に対する偏見、傷んだ食べ物が我が家に来ることを「不幸」と一瞬で判断してしまっていた思考グセがあること

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最後に

何事にも感謝することと五戒を言わないことは、頭ではわかっていても実践となると難しいということをしみじみと感じています。いいことや特に何も事件が起きていないときには実践するのはたやすいですが、今回のように命にかかわらないちょっとした”イヤな出来事でも、こうも簡単に実践が難しくなるのかと、身をもって感じました。自分の無意識にある思考グセ、非難グセ、善悪、価値観、そういったモノにも気が付くことができました。それに気づくことができたことが、今回の「腐ったナス事件」の一番の成果だったのかもしれませんね。今までの自分だったら、確実にこんなに冷静に分析できなかったでしょうから。これも日々の瞑想と「ありがとう」の実践が心に変化をもたらし、人間として成長させてくれている証拠なのかもしれません。

まだまだ修行の道の途中。何なら始まったばかり道は長いですが、こうした経験をたくさんして、たくさん気づいて、少しでも「こうありたい自分像」に近づいていけたらなと思っています。

 

最後までお読みくださってありがとうございました。

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