【ヨガ・瞑想】道は違えど結局同じところに向かっていく

最近つくづく感じることがあります。

「みんな結局おなじところに向かって進んでいるんだな」と。

「同じところ」というのは「悟り」とか「解脱」とかだろうと思います。

今日はそれについて記事にしたいと思います。

始め方・道は人それぞれ

人間が本来持つ能力はどれほどのものか、内なる神(アートマン)とつながりその声を聞こうと思い始めた人は、何かのきっかけで余計なモノを手放す作業が始まるように思います。余計なモノがついていると、重いし、邪魔だし、本来の能力、アートマンの声が聞こえないからです。

例えば、ミニマリスト:持ち物を必要最低限にまで減らす

例えば、ヨガ:贅肉を落とし、肉体の持つ能力を最大限引き出す

例えば、腸活:食品添加物を排除し、腸にいい食品だけを摂取する

例えば、ファスティング(断食):必要最低限の栄養だけ摂取し、体内に溜まった毒を出す

例えば、瞑想:思考のゴミ(雑念)を排除する

例えば、芸術家:天から降ってくる声をキャッチし表現する

例えば、アスリート:肉体とメンタルを極限まで鍛え高める

例えば、節約家:無駄遣いを減らす

例えば、ビジネスマン:効率を上げるための工夫、重要な決断をするために小さい決断の回数を減らす

ほかにもいろいろ「手放し高める」行為はあるかと思います。

 

この中でも、相性がよく、道の途中で合流するものも。

例えば私はヨガから始め、瞑想、腸活とファスティング、そしてミニマリストから節約家にもなりました。ヨガと瞑想はもともと同じだから当然として、腸活やファスティングもヨガに通じるものがあります。

でも節約家だからといってみんな腸活するかというとそうでもありません。それよりはミニマリストの方が相性がよく、節約家でありミニマリストでもあるという人は多そうです。

真実を探す登山の途中で合流するものもあれば、全然交わらないものもある。

しかし結局、どこから始めようと、どういう道を通ろうと、目指すところは同じなんだよな、と。

減らして手放した先でぶつかる困難

私も捨て活したり、ファスティングしたり、いろいろ余計なものを手放してだいぶシンプル、身軽になったつもりでしたが、正直、物質的なモノは比較的カンタンに手放せる印象があります。そして一旦手放したらこちらが再び侵入を許可しない限りもう戻ってくることはありません。

問題は「心」です。

特に、思考のクセ。欲。感情。

 

こういったものは本当に手ごわい!

手放して手放して瞑想して手放して、やっと自分のことが客観的に見られるようになって、「自分はこういう時にこういう感情、考え方、捉え方をしがちだ、そういうクセがある」と分かったとしても、その次の段階、「手放す」ができない!

頭ではわかっていて、手放したいと思っても、心にいすわって消えてくれないんです。

そして「手放せた!」と思っても、また後日、素知らぬ顔でまたひょっこり顔を出してきます。

何より重く、やっかいな持ち物だと思います。

 

どんな道を通ったとしても、結局ぶつかる困難は「心」なのではないでしょうか。

まとめ

そういった最後に残った「心」の問題を解決してくれる方法はいくつかあると思います。瞑想しかり。その手段の一つに「時間」や「経験」もあると思います。

年を取ると人間丸くなるっていいますよね。

若いのに「丸い人」とか「悟った人」ってあまりいないと思います。(私が知らないだけで今回の生で解脱を迎える若者がいるかもしれません)

いろんなことを経験し、いろんな感情や思いを味わい尽くし、悩んで苦しんだその先に、心の手放し(コントロール?)が実現するのかな、とも最近思うようになりました。

あのブッダだって、悟りを開く前はいろいろ思い悩んで苦しい経験もいっぱいしたようですからね。

そうだとすると、迷い、苦しみ、もがき続ける日々も無駄ではなく、着実にゴールに向かって進んでいると思えます。

いくらつらくても、この登山だけは自分の力で、自分一人で進んでいくしかないのでね。一緒に登ってくれる人は誰もいません。

これからも精進していきたいと思います。

なんだかまとまらない記事になってしまいました。

 

この記事が何かの参考になったら嬉しいです。

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