ヨガと日本語教師◆エゴを外し目覚めへと続く道

私の意識はこの人生ゲームを臨場感をもって楽しむためにこの肉体を与え、エゴを使って「自」と「他」に分けアイデンティティを持たせました。

 

私は〇〇

 

この〇〇に入るものはたくさんあります。

例えば、名前、日本人、男性/女性、夫/妻、娘/息子、母親/父親、社長、頑固、おしゃれ、料理上手、かわいい、かっこいい、おもしろい、など

それ、全部エゴ(マーヤ、幻想)です。

その中でも、最近私がすごく居心地の悪さを感じていたものに仕事があります。「私はヨガ行者」でもあり「私は日本語教師」でもある。2足のわらじを履いている人はたくさんいるけれど、わたしは日本語教師の仕事に昔ほどおもしろさややりがいを感じなくなっていました。「執着せずに流れに身を任せる」という生き方をすると決めてから、この人生に不必要なものは天がやめさせるように仕向けてくるだろうと思っているのですが、現在もこの仕事をやり続ける羽目になっている。どうしてだろう?と思っていたのですが、やっとその答えが分かったような気がします。

日本語教師はエゴを見つけやすくするため

外国人と出会うことで、「わたしは〇〇」の「〇〇」が見つけやすくなります。特に日本社会の常識(=エゴ)や、私の家だけのルール(エゴ)、または私だけのルール(エゴ)などです。

例えば日本では遅れることは悪いことでそれによってイライラしますが、外国人は待ち合わせに遅刻しても、電車が遅れても全然平気です。私の家ではご飯は家族そろって食べるものでしたが、ヨソの家や外国ではそれぞれが好きな時間に好きなものを食べます。栄養バランス気にしないし、毎日同じものを食べ続けても平気。子供が食卓でコーンフレーク食べようとしているとき、お母さんはソファでテレビ見ています。それもOK。あるいは、日本人は食べながらの会話OKだけど、外国では食べ物を飲み込むまでしゃべってはいけないときつくしつけられているとか。

このように、自分にとってNGだけど外国ではOK、逆に自分にとってOKだけど外国ではNGと、人や場所が変われば意味が変わるもの、異文化や外国人と接することで、驚いたりショック受けたりすること全部が、自分の持っているエゴに気づかせてくれる助けになっていたんですね~。

ことばの限界を知るため

学生時代、ことばと世界の見え方、関係についてすごく興味がありました。例えば日本語では「お風呂」と「トイレ」は別の場所(もの)を指しますが、英語ではどちらも「bathroom」で区別はありません。日本は雨が多いので「雨」を表す表現が「五月雨」とか「大雨」とかたくさんありますが、雨があまりふらない地域では一つだけだったりします。逆に日本で「ワニ」は大きくても小さくても全部この言葉一つであらわしますが、中南米では「クロコダイル」「カイマン」「アリゲーター」などと呼び分けます。「虹」を7色という人もいれば2色、あるいは8色という人もいます。もはや同じものをさしているのだろうか、同じものを見ているのだろうか、わたしとほかの人ではたとえ同じものを見ていても見えているものがちがうんじゃないかと思うようになりました。

目で見える物質でこれだから、内的な感覚や感情はもっと伝えにくい。日本語は「しくしく痛い」とか「小川がサラサラ流れる」とか「ワクワクする」とかのオノマトペ(擬音語・擬態語)を使った表現が多いのが特徴ですが、それはどれだけ共有できているのでしょう。

小林正観さんは「感謝は人間だけに許された権利だ」と言っていました。動物やロボットに感謝の概念はないので、今後どれだけ言葉が分かるチンバンジーやAIロボットが出てきても、感謝の気持ちや感覚は言葉では伝えることができないでしょう。

すべては目覚めにつながっていた

そう考えると、

OLをやっていた私が日本語教師という職業があることを知っておもしろそうだと飛びついたこと、

ヨガに興味を持ち、やりだしたらはまったこと、

今までも、今も、外国に住んだりたくさんの外国人に出会ったりすることで、いろんなルールがあって、いろんな人がいて、いろんな見方があると知ったこと、

それによって逆に自分というものを知ったこと、

私が見ている世界とほかの人の見ている世界は違う可能性があると知ったこと、

内側の感覚は言葉で伝えるには限界があると知ったこと、

 

それら全部、目覚めのためだったんだな~と。

この人生のからくり、ストーリー展開を考えて経験させてくれた神様=自分の意識、そしてエゴの同化力と演出、本当にすごい!

これから

まだ日本語教師であり続けている意味が分かって、すごくラクになりました。

いろんな日本語教師がいていいと思います。言葉に向き合うのが好きな人もいれば、成績を上げることに情熱を燃やす人、生活や仕事のサポートをするのにやりがいを感じる人もいます。

私はヨギーニ(心の探求者)でもある日本語教師。粛々と自分の内側と向き合う人。

これからも人生天任せで、教師を卒業する時期が来たら執着なく辞めるし、まだ続けろというなら続けます。力を抜いて流されるまま、心の向くまま、進んでいこうと思います。

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